Quincy Jones|アーティスト歴史 完全版 — グラミー28回受賞・80ノミネート / Thriller 6500万枚 / 黒人初のメジャー映画音楽・レコード会社副社長 全記録
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▲ U.S.A. For Africa「We Are the World」公式ミュージックビデオ。1985年1月28日、A&Mスタジオに集まった45人のスターを一晩でまとめ上げたのがクインシー・ジョーンズだった。スタジオ入口に貼られた「Check your egos at the door(エゴは入口に置いてこい)」の一文は、彼の仕事の本質をそのまま表している。なお Recording Academy 公式の受賞スピーチ映像(GRAMMY Rewind/1991年 Album of the Year 受賞時、1986年 Record of the Year 受賞時)は grammy.com で視聴できる。
数字で見る Quincy Jones
本名: Quincy Delight Jones Jr.(クインシー・ディライト・ジョーンズ・ジュニア)/1933年3月14日、米イリノイ州シカゴ生まれ。1943年に父の戦時労働のため一家でワシントン州ブレマートンへ移り、シアトル圏で育つ
没年月日: 2024年11月3日、ロサンゼルス・ベルエアの自宅にて家族に看取られ死去。享年91
グラミー賞 通算受賞: 28回/通算ノミネート: 80回(2024年2月時点)。存命の男性としては史上最多、歴代全体でも Beyoncé(32回)、指揮者サー・ゲオルク・ショルティ(31回)に次ぐ3番目
初受賞: 1964年5月12日、第6回グラミー賞 Best Instrumental Arrangement — カウント・ベイシー版「I Can't Stop Loving You」の編曲。以後55年にわたって受賞歴が続く
Album of the Year 受賞: 2回 — 1984年 第26回『Thriller』(プロデューサーとして)/1991年 第33回『Back on the Block』(自名義のアーティストとして)
Record of the Year 受賞: 1回 — 1986年 第28回「We Are the World」(U.S.A. For Africa/プロデューサー)。同年 Song of the Year、Best Pop Performance by a Duo or Group with Vocal、Best Music Video, Short Form も獲得
グラミー特別賞: Trustees Award (1989年)/Grammy Legend Award (1992年、ジョニー・キャッシュ、アレサ・フランクリン、ビリー・ジョエルらと同時受賞)
アカデミー賞: 競争部門で通算7ノミネート(18年間)。1986年には『The Color Purple(カラーパープル)』で作品賞(製作者として)・作曲賞・主題歌賞の3部門同時ノミネート。1994年にジャン・ハーショルト人道賞を受賞
マイケル・ジャクソン3部作『Off the Wall』(1979)『Thriller』(1982)『Bad』(1987)の累計セールス: 1億枚超
『Thriller』単体の世界セールス: 約6500万枚 — 史上最も売れたアルバム。『Off the Wall』は約2000万枚
「We Are the World」(1985年3月7日発売): 全世界2000万枚超。全世界で1000万枚以上を売った30曲未満のシングルの一つ。飢餓救済のために6300万ドル超を集めた
主な栄誉: Kennedy Center Honors (2001年)/National Medal of Arts (2010年、オバマ大統領より)/Rock & Roll Hall of Fame 殿堂入り (2013年、非演奏者部門)
はじめに — 「作った人」ではなく「設計した人」
クインシー・ジョーンズを一語で説明するのは難しい。トランペット奏者、アレンジャー、作曲家、映画音楽家、レコード会社副社長、レコードプロデューサー、映画プロデューサー、テレビプロデューサー、雑誌創業者、起業家。肩書きを並べるほど輪郭がぼやける。
それでも一本の線を引くとすれば、彼は「音を作った人」ではなく「音楽が世に出ていく仕組みを設計した人」だった。ビッグバンドのスコアを書く手つきで、アルバム全体の構成を設計し、映画の音響設計を組み立て、レコード会社の意思決定に関わり、最終的には世界45人のスターを一晩でひとつの曲にまとめ上げた。楽譜の書き方が、そのまま組織の動かし方になっていた人である。
グラミー賞は彼を28回表彰した。ノミネートは80回。だが数字以上に重要なのは、そのうちの何度かが「黒人として初めて」という但し書きを伴っていたことだ。ハリウッドのメジャー映画のスコアを書いた最初の黒人作曲家。大手レコード会社の副社長に就いた最初の黒人。GAJでは、この記事をクインシー・ジョーンズという個人の伝記としてではなく、音楽産業の構造がどう変わったかの記録として読む。
第1章 1933-1943|シカゴ・サウスサイドからブレマートンへ
1933年3月14日、シカゴ生まれ。大恐慌のただ中である。育った環境は決して穏やかではなかった。1943年、父が第二次大戦の軍需産業であるピュージェット湾海軍造船所で職を得たことで、一家はワシントン州ブレマートンへ移る。この移動が結果的にすべてを決めた。
シカゴに留まっていれば、当時の黒人少年に開かれていた道は限られていた。西海岸の造船の町には、戦時労働で全米から人が集まり、その分だけ音楽も集まっていた。少年が偶然たどり着いた場所に、たまたま楽器とバンドと年上の演奏者がいた。
第2章 1943-1951|トランペットと、レイ・チャールズという同級生
中学でトランペットを始め、12歳でゴスペル・カルテットに参加して歌っていた。この時期のシアトルで彼が親友になったのが、同じく10代のレイ・チャールズである。二人はまだ何者でもなかった。
この関係は生涯続く。1967年の映画『In the Heat of the Night(夜の大捜査線)』でジョーンズがスコアを書いたとき、主題歌を歌ったのはレイ・チャールズだった。10代のシアトルで始まった友情が、20年後にアカデミー賞作品賞受賞作のオープニングになった。
第3章 1951-1956|バークリー中退、ライオネル・ハンプトン楽団へ
18歳でボストンのバークリー音楽大学に奨学金を得て進学する。しかし在学は長く続かなかった。バンドリーダーのライオネル・ハンプトンからツアー参加の誘いが来たとき、彼は迷わず学校を離れた。学位より現場を取ったわけである。
1950年代前半にニューヨークへ移り、カウント・ベイシー、トミー・ドーシー、ライオネル・ハンプトンらのアレンジャー兼演奏者として働く。ここで身につけたのはビッグバンドの編曲術だ。15人から20人の楽器を、誰がいつ何を吹くかまで含めて紙の上で設計する技術である。のちに彼が45人のスターを一晩でまとめられたのは、この訓練の延長線上にある。
第4章 1956-1961|パリ、そして自前ビッグバンドの破綻
1950年代後半、パリでナディア・ブーランジェらに学び、ヨーロッパのクラシックの作曲理論を吸収する。同時期にバークリー中退組の若手として自前のビッグバンドを率いて欧州をツアーした。
この挑戦は経済的には失敗する。大所帯を抱えたツアーは採算が合わず、深刻な負債を背負った。だがこの失敗が、彼に「音楽は作るだけでは食えない、流通と経営を握らなければ続かない」という決定的な学習をもたらす。彼が以後、演奏者ではなく設計者・経営者の側へ軸足を移していく理由がここにある。
第5章 1961-1968|マーキュリー・レコード副社長 — 黒人初の大手レコード会社重役
1961年、マーキュリー・レコードの副社長に就任する。米国の大手レコード会社で黒人が副社長職に就いたのは、これが初めてだった。当時の音楽産業において、黒人は演奏する側であって意思決定する側ではない、というのが暗黙の前提である。その前提が一人の人事で崩れた。
1964年5月12日、第6回グラミー賞で初のトロフィーを手にする。部門は Best Instrumental Arrangement、対象はカウント・ベイシー版「I Can't Stop Loving You」の編曲だった。演奏でも作曲でもなく編曲での受賞というのが、彼のキャリアの性格をよく表している。
第6章 1964-1970|ハリウッド — 『The Pawnbroker』から『In Cold Blood』へ
1964年、シドニー・ルメット監督『The Pawnbroker(質屋)』のスコアを担当。ハリウッドのメジャー映画の音楽を書いた最初のアフリカ系アメリカ人となった。以後、映画音楽が彼の主戦場のひとつになる。
1967年は当たり年だった。ノーマン・ジュイソン監督『In the Heat of the Night(夜の大捜査線)』ではレイ・チャールズが歌う主題歌を用意し、同年のリチャード・ブルックス監督『In Cold Blood(冷血)』ではトルーマン・カポーティ原作の陰惨な物語に、音数を削ぎ落としたミニマルなスコアを当てた。翌1968年、『In Cold Blood』で初のアカデミー作曲賞ノミネートを獲得し、同一年に2部門でノミネートされた最初の黒人作曲家となった。
映画音楽の仕事は彼に、音楽を「単体の作品」ではなく「物語の中の機能」として扱う訓練を与えた。この視点が、のちにマイケル・ジャクソンのアルバムを1本の映画のように構成する発想につながっていく。
第7章 1969-1978|A&M時代 — 自名義アーティストとしての確立
1969年の『Walking in Space』を皮切りに、『Gula Matari』(1970)、『Smackwater Jack』(1971)、『You've Got It Bad Girl』(1973)、『Body Heat』(1974)、『Mellow Madness』(1975)、『I Heard That!!』(1976)、『Sounds...and Stuff Like That!!』(1978)と、A&Mレコードから自名義作品を継続的に発表する。
この時期の作品群の特徴は、ジャズ、ファンク、ソウル、ブラジル音楽、映画音楽の語彙が同じ盤の上で共存していることだ。ジャンルの境界を守る意識がほとんどない。1962年の『Big Band Bossa Nova』収録「Soul Bossa Nova」に至っては、30年後に映画『オースティン・パワーズ』のテーマとして再発見され、世代をまたいで生き残った。
1974年には脳動脈瘤で倒れ、二度の手術を受けている。医師からトランペットを吹くことを禁じられた。演奏者としての道が物理的に閉ざされたこの出来事が、彼を完全にプロデューサー側へ押し出す。
第8章 1978-1980|『Off the Wall』 — 20歳のマイケル・ジャクソンを組み替える
1978年、ジョーンズは映画『The Wiz』のサウンドトラックを手がける。主演の一人がマイケル・ジャクソンだった。撮影の合間、ジャクソンは自身のソロアルバムのためにプロデューサーを紹介してほしいとジョーンズに相談する。ジョーンズは候補を挙げる代わりに、自分がやると申し出た。
こうして1979年に生まれたのが『Off the Wall』である。ジャクソン5時代の少年歌手を、ディスコ、ファンク、ソウル、ジャズ、バラードを横断する成人アーティストとして再定義した一枚だ。最終的に約2000万枚を売った。
1979年7月10日にエピック・レコードから先行シングルとして出た「Don't Stop 'Til You Get Enough」は、ジャクソン自身が書いた曲であり、彼のソロキャリア初の短編映像作品でもあった。
▲ Michael Jackson「Don't Stop 'Til You Get Enough」公式ビデオ。監督ニック・サクソン。『Off the Wall』の1979年No.1ヒットにして、マイケル・ジャクソンのソロ初の短編映像。
第9章 1980-1981|『Give Me the Night』と『The Dude』
1980年、ジョーンズはジャズギタリストのジョージ・ベンソンをプロデュースし、アルバム『Give Me the Night』を送り出す。ジャズの人をポップのチャートへ移し替える作業であり、同時にジャズの語彙を失わせない作業でもあった。表題曲はロッド・テンパートンの筆による。
▲ George Benson「Give Me The Night」公式ミュージックビデオ(1980年)。プロデュースはクインシー・ジョーンズ。
翌1981年3月26日、自名義の『The Dude』を発表。ジェームス・イングラム、パティ・オースティンら当時無名に近かった歌手を起用し、彼らをスターにした。ジョーンズの自作アルバムは、常に「誰かを見つけて世に出す装置」でもある。
第10章 1982-1984|『Thriller』 — 記録の桁を変えた一枚
1982年発売の『Thriller』は、世界で約6500万枚を売り、史上最も売れたアルバムであり続けている。この数字は音楽産業の常識を書き換えた。「アルバムはどこまで売れうるか」の上限が、この一枚によって別の桁に移された。
1983年1月2日にシングルカットされた「Billie Jean」は、スティーヴ・バロン監督の映像とともに、MTVにおける黒人アーティストの扱いを実質的に変えた曲として記憶されている。
▲ Michael Jackson「Billie Jean」公式ビデオ。監督スティーヴ・バロン。1983年1月2日、『Thriller』からの2ndシングルとして発売。
そして表題曲「Thriller」。ジョン・ランディス監督の14分の短編は、ミュージックビデオを販促物から作品へと押し上げた。楽曲の設計者はジョーンズであり、この盤全体の音の配置、間、ボーカルの立て方は彼の手による。
▲ Michael Jackson「Thriller」公式ビデオ。監督ジョン・ランディス。
1984年の第26回グラミー賞で『Thriller』は Album of the Year を受賞する。ジョーンズにとってプロデューサーとしての最初のAOTYだった。だが本人が後年語ったところによれば、この時点でもまだ「自分の名前でグラミーを獲る」という発想は持てていなかった。
第11章 1985-1987|「We Are the World」と『The Color Purple』
アフリカの飢餓救済を目的とした米国発のチャリティ・シングルという構想は、活動家ハリー・ベラフォンテと資金調達者ケン・クレイゲンから出た。曲を書いたのはマイケル・ジャクソンとライオネル・リッチー。そしてプロデュースを引き受けたのがクインシー・ジョーンズだった。
1985年1月28日、アメリカン・ミュージック・アワードの授賞式終了後、スターたちがロサンゼルスのA&Mスタジオに集まった。一晩で録り切るという条件下で、ジョーンズは誰にどのフレーズを歌わせるかを設計し、45人分の声を1曲に収めた。
1985年3月7日発売。全世界2000万枚超を売り、飢餓救済に6300万ドル以上をもたらした。1986年の第28回グラミー賞では Record of the Year、Song of the Year、Best Pop Performance by a Duo or Group with Vocal、Best Music Video, Short Form を獲得している。
同じ1985年、彼はスティーヴン・スピルバーグ監督『The Color Purple(カラーパープル)』に、作曲家であると同時に製作者として関わる。翌1986年のアカデミー賞では、作品賞(製作者として)、作曲賞、主題歌賞の3部門でノミネートされた。音楽の人が映画の意思決定側に回った瞬間である。この作品でウーピー・ゴールドバーグとオプラ・ウィンフリーが世に出た。
1987年にはマイケル・ジャクソンとの3作目『Bad』を制作。同作は、ビルボードHot 100で5曲連続1位を記録した史上初のアルバムとなった。ジャクソンとの3部作の累計は1億枚を超える。
第12章 1989-1995|『Back on the Block』 — 自分の名前で獲ったAlbum of the Year
1989年の『Back on the Block』は、黒人音楽の100年を1枚に畳み込む試みだった。参加者を並べるだけで意図が分かる。エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、ディジー・ガレスピー、マイルス・デイヴィス、レイ・チャールズといったジャズとソウルの巨人たち。ルーサー・ヴァンドロス、ディオンヌ・ワーウィック、バリー・ホワイト、チャカ・カーン、ジョージ・ベンソン、アル・ジャロウ、ボビー・マクファーリン、テイク6。そしてアイス-T、ビッグ・ダディ・ケインといったヒップホップ勢と、当時12歳のテヴィン・キャンベル。
ビバップの創始者とラッパーを同じ盤に乗せるという発想は、1989年の時点では挑発的ですらあった。ヒップホップはまだ音楽産業の中心から距離を置かれていた時代である。ジョーンズはそれを、黒人音楽の連続した歴史の最新章として扱った。
1991年2月20日、ニューヨークのラジオシティ・ミュージックホールで開かれた第33回グラミー賞で、『Back on the Block』は Album of the Year を受賞。同作は計6部門を制し、ジョーンズは Producer of the Year(Non-Classical)、そしてアイス-T、メリー・メル、ビッグ・ダディ・ケイン、クール・モー・ディーらと共に Best Rap Performance by a Duo or Group も獲得した。
受賞スピーチで彼は、1958年からアカデミーの一員だが自分の名前でグラミーを獲ることを考えたのはこれが初めてだ、と語っている。MCハマー、ウィルソン・フィリップスと並んだ部門で獲れたことが誇らしいとも述べた。57歳での初の自名義AOTYである。
同作からのシングル「The Secret Garden (Sweet Seduction Suite)」は、バリー・ホワイト、ジェームス・イングラム、エル・デバージ、アル・B・シュア!の4人のボーカルを重ね、1990年にビルボードのブラック・シングル・チャートで1位を獲得した。1995年には続編的な『Q's Jook Joint』を発表している。
第13章 1990-2024|起業家、メンター、そして最期
1990年代以降のジョーンズは、音楽の外側での活動が増える。NBCのシットコム『The Fresh Prince of Bel-Air(ベルエアのフレッシュ・プリンス)』の製作総指揮を務め、ウィル・スミスを俳優として世に出した。黒人音楽文化を扱う雑誌『VIBE』を創刊し、映像制作会社を運営し、教育・慈善活動に資金と時間を割いた。
栄誉が続く。1989年に Recording Academy の Trustees Award、1992年に Grammy Legend Award。1994年にアカデミーのジャン・ハーショルト人道賞。2001年に Kennedy Center Honors。2010年にオバマ大統領から National Medal of Arts。2013年、オプラ・ウィンフリーの紹介でロックの殿堂入り(非演奏者部門)。
2024年11月3日夜、ロサンゼルス・ベルエアの自宅で、家族に見守られながら息を引き取った。91歳。翌2025年2月2日の第67回グラミー賞では、スティーヴィー・ワンダー、シンシア・エリヴォ、クリス・マーティンらによる追悼パフォーマンスが行われた。
グラミー賞 主要記録と Big 4
通算受賞 28回/通算ノミネート 80回(2024年2月時点)。存命男性として史上最多、歴代全体でも3位
Album of the Year — 1984年 第26回『Thriller』(Michael Jackson/プロデューサー)/1991年 第33回『Back on the Block』(自名義)
Record of the Year — 1986年 第28回「We Are the World」(U.S.A. For Africa/プロデューサー)
Song of the Year — 1986年 第28回「We Are the World」は同部門も受賞(作詞作曲はMichael Jackson / Lionel Richie)
Producer of the Year (Non-Classical) — 1991年 第33回ほか
初受賞 — 1964年 第6回 Best Instrumental Arrangement「I Can't Stop Loving You」(Count Basie)
特別賞 — Trustees Award (1989年)/Grammy Legend Award (1992年)
主要アルバム一覧(自名義)
1962年『Big Band Bossa Nova』(Mercury) — 「Soul Bossa Nova」収録
1969年『Walking in Space』
1970年『Gula Matari』
1971年『Smackwater Jack』
1973年『You've Got It Bad Girl』
1974年『Body Heat』
1975年『Mellow Madness』
1976年『I Heard That!!』
1978年『Sounds...and Stuff Like That!!』
1981年3月26日『The Dude』 — James Ingram、Patti Austin を世に出した一枚
1989年『Back on the Block』 — 1991年 Album of the Year
1995年『Q's Jook Joint』
2010年『Q: Soul Bossa Nostra』
主なプロデュース作: Michael Jackson『Off the Wall』(1979)/『Thriller』(1982)/『Bad』(1987)、George Benson『Give Me the Night』(1980)、U.S.A. For Africa「We Are the World」(1985)、Frank Sinatra『L.A. Is My Lady』(1984)ほか。
日本の音楽関係者にとっての読みどころ
クインシー・ジョーンズのキャリアから取り出せる実務的な示唆は3つある。
1つ目は、編曲の技術が組織運営の技術に転用できること。誰にいつ何をさせるかを紙の上で決める作業は、ビッグバンドでもレコード会社でも同じ構造をしている。彼が副社長になれたのは人望だけではなく、複数の人間の出力を同時に設計する訓練を10年以上積んでいたからだ。
2つ目は、失敗の使い方。1950年代末の自前ビッグバンドの経済的破綻がなければ、彼は演奏と作曲だけの人で終わっていた可能性が高い。負債を抱えた経験が、流通と経営を押さえるという次の一手を選ばせた。
3つ目は、世代を混ぜる勇気。『Back on the Block』で彼は、ビバップの創始者と当時新興だったヒップホップのラッパーを同じ盤に乗せた。既存の権威と新しい表現を対立させず、同じ歴史の中に並べて置く。この編集方針こそが、57歳での自名義AOTY受賞を呼び込んだ。日本の音楽シーンでも、世代とジャンルを分断せずにひとつの企画に収める設計は、いま最も不足している技術である。
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出典・本記事について
一次ソースは Recording Academy 公式、主要参照は grammy.com。受賞記録・セールス数値・年譜については Guinness World Records、Britannica、Kennedy Center、National Endowment for the Arts、および各報道機関の訃報記事(Variety、CNN、NBC News、PBS NewsHour)を突き合わせて確認した。数値は取得時点のものであり、以後の更新により変動しうる。
本記事は GAJ(ジ・アソシエーション・ジャパン/株式会社ブラッシュミュージック)による日本語解説であり、Recording Academy および The Recording Academy が主催するGRAMMY Awardsとは独立した編集です。公式見解を代表するものではありません。



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